Ⅴ 花 火 2006
僕はこんなに不幸ですと
友達を見つけては
次から次へと
しゃべるあなたはとても幸せかも知れませんね
語り切れない悲しみって奴を
僕は知っている
みんながどうしてお酒を飲むのか
僕は知っています
遠い花火においかけられて
夏が今終わる僕は
暗い空に花火を待っている
(『花火』詞/KINYTA 唄/中川イサト)
西口で待ち合わせをするなら、西口交番か、丸井の前だ。池袋を知らなくても、西口に出て誰かに聞けばこの2ヵ所ならみんな知っている。
池袋は渋谷や新宿と違い、人の絶対数が少ない。渋谷では「ハチ公前で待ち合わせ」はダメである。人が多くて会えない可能性がある。「ハチ公のしっぽを持って待つ」というのが正しい。
ケータイがここまで普及して10年、確かに待ち合わせで不要な心配はしなくなった。直接に、どんな時間でもどこにいても電話がかけられる。それがいいとか悪いとか、そんな議論をしてもはじまらないだろう。便利を知ってしまった人間が、それを捨てた歴史はどこにも存在しない。
得たものと同じだけのものを失う。エネルギー不変の法則ではないが、便利と引き換えに何か大切なものをなくしたような気がしてならない。
丸井の前には何人もの待ち人がいる。定点カメラを設置して15分ごとにシャッターを押せば画面の人間はほぼ100%替わっているはずだ。ただ本日はフレームの左、正面入口の端に小一時間、同じ人間が写っている。待ちぼうけを食らっているのだ。
「エーッ、マジ? もう丸井の前にいるんだよ。昨日、大丈夫だっていってたじゃん。今頃ドタキャン? オレだって、週一回しか休みないんだし……1時間くらいだったら待つし……ちょっとだけでも出ておいでよ」
待ち合わせしていた女の子にドタキャンされたのは、ラーメンマンこと足音正男。
●キーボードと変換音。テロップが流れる。
足音正男(あしね・まさお)
28歳。バーテンダー。池袋にあるR大学卒業。ストリートダンサーをやっていたらしい。頭のテッペンでくるくる回れる(本人談)。その影響か、髪の毛がショボクなったせいか短髪にし、右サイドに剃刀でラインが2本入っている。弁髪のように髪の毛を後ろで結び、あご髭を生やしている容貌はどう見ても中国人。『筋肉マン』に登場するラーメンマンそっくりである。
「GAPで新しい服も買ったし、美容院にもいったのに……これから今日はやることまったくなし。ずっと暇。売るほど暇。誰か買ってよ」
足音は電話を切られたあと一人ブチブチいっている。夏はもうすぐ終わる。今年の夏も何も起こらなかった。
足音は丸井の前の交差点を渡った。そこから一つ目でも二つ目でも角を曲がると、池袋でもっともディープな世界に突入する。ディープというと恐ろしい世界を想像する人もいるかもしれないが、ちょっと違う。
100mも歩くとラブホテルが林立するが、そこに到るまでに存在するものが支離滅裂、波乱万丈、興味津々なのである。
この界隈の夜は22時頃からはじまる。路地にある古めかしいビルからあまりおしゃれじゃないが個性的な若者たちが何十人も出てくる。30年前から頑張っている小劇場の芝居がはねたのだ。
その少しあとになると小学生がうじゃうじゃ、こいつらどこから涌いたんだという数である。隣のビルは、日本で有数の進学塾だ。塾帰りの彼らを見たお父さんたちの酔いは、少しだけ醒める。
少し行くとハードゲイがたまっているといわれている店が地下にある。普通のスナックだと思って飛び込んだ客の話。目に入ってきたのは、なんとカウンターの上にトグロ巻いたウンコだった。
角を曲がったところには「ザ・オカマ」というそのまんまの店。ニューハーフのきれいな子から、毛深い化け物まで、その守備範囲は広い。
「ザ・オカマじゃなくて、文法的にはジ・オカマだろっ!」
大卒のラーメンマンはそうツッコミたかったが、実は彼は想像力が豊かで、心優しい青年だった。あの業界の受け身の男性はほぼ間違いなく痔であろう。
「ジ・オカマ=痔オカマ=痛い」
ここまで連想すると、「痛いならザ・オカマでいいじゃないか」と思う。頭に浮かんだ男同士が絡み合う映像を打ち消すように頭を振った。一本奥の筋を入ると「地下鉄パブ」。女の子がセーラー服を着ていて、天井から吊り革がぶら下がっている。女の子が吊り革につかまり、口で「ガタンゴトンガタンゴトン」とかいいながらゆれていて、背後から客がすり寄り、お尻をさわさわと……。ここまで想像してラーメンマンは頭痛がした。
「経営してるほうも、客も、いい大人がいったい何を考えているのか」
しかし人間とは矛盾の生き物だ。頭で哲学して、下半身でエッチする。かの谷崎潤一郎先生しかりだ。ラーメンマンは頭痛がすると同時に下半身がうずいた。「行ってみたい!」、でもあの店のオーナーはラーメンマンの店の客だから、「行けない!」。
その隣が、抜きキャバ。「自衛隊・学生の方、2000円割引」の看板がやたらに目立つ。これから日本を背負う学生さんにはすっきりして学業に励んでもらう。自衛隊の人にはすっきりして日本を守ってもらおう。
自分もすっきりしたバーテンダーになりたいと思うラーメンマンだった。「行きたい!」、でも抜きキャバの店長がラーメンマンの店の客なのでやっぱり「行けない!」。
地下鉄パブは、「おさわり」だけだから、店から出てくる客が何だかモヤモヤしてるのに対し(これが本当のモヤモヤ病か)、手や口で抜いてもらった抜きキャバの客はとても晴れ晴れとした顔をしている。
新風営法の影響で一時このあたりも閑古鳥がないていたが、打倒・石原慎太郎、呼び込みのおにいさんは、完全復活していた。行き交うサラリーマンに声をかける。でもよく観察すると、すべての客に声をかけるているわけではない。金になる客とそうでない客をかぎ分ける独特の嗅覚があるらしい。ラーメンマンの顔はよく知られているから、「おはよっす」とみんな声をかける。
体重150キロはありそうなあのおにいさんは名物呼び込みの「朝潮」。得意ワザは「押し出し」ではなく「押し入れ」。「いくら?」「安くしときますよ」「ボッチャン(ボッタクリの店)じゃないの?」「良心一番、両親二番、三時のおやつは食べてない」と交渉しているあいだにあのお腹で客を押して、いつのまにやら客を入店させるという違法ぎりぎりの力ワザだ。
呼び込みの顔を見ると、ある共通点がある。2枚目ではいけない。眼光が鋭くてはいけない。頭が切れそうでもいけない。『レギュラー』の松本君みたいな顔がいいのだ。
見慣れた3人組が向こうから歩いてくる。ラーメンマンは目を伏せ、どこかに隠れようとしたが、見つかってしまった。ラーメンマンの風貌は特徴ありすぎ。
「よっ、ラーメンマン」
親しげに声をかけたのが、岡林・牛山・太の3バカだ。この界隈ではそこそこ有名になった3人組だが、呼び込みは誰も声をかけない。
「3バカがなじみになった店は、つぶれる」
という噂が流れているせいか、見るからに貧乏に見えるせいか。どちらにしろ今夜は、いや今夜もキャバクラで遊ぶほどのお金を3人は持っていない。
デートする予定だった女の子にドタキャンされるし、3バカにも会ってしまった。今日は厄日なのだと納得しかけたそのとき、角に立っている若いアンちゃんがラーメンマンに深々とおじぎをして、あいさつした。まだ20歳くらいだろうか、顔に幼さが残っている。
「足音さん、本当に本当にいつもいつもお世話になってます」
その瞬間、ラーメンマンはキレた。
「バカ! お客さんといるときにそんなあいさつはないだろ! こういう場合は見て見ぬふりするのがこの業界のルールだろ。だから半人前っていわれるんだよ! トオルは」
トオルといわれた若者は、泣きそうな顔で反論する。
「だって、死んだばあちゃんの遺言ですから。知ってる人、いつもお世話になってる人にはちゃんとあいさつしなさいって。あいさつできない奴はロクなもんじゃない。人間のクズだ!」
悪気はなかったが「人間のクズだ!」のところでトオル君は足音の顔を見た。それがラーメンマンの怒りに火をそそいだ。
「だから、今、あいさつしたら、オレがこの店に通ってるみたいだろっ。まるで常連みたいに思われるじゃないか。イメージっつうのが崩れるだろ」
岡林がラーメンマンの肩に手を置くと、
「まあまあまあ、いいじゃない。トオル君もああやって謝ってるし」
「謝ってないっすよ。こいつ」
そのとき、トオル君は消え入りそうな声で、
「ゴメンナサイ」
と頭を下げた。太がトオル君の店の看板を見上げて、わざわざ大きな声で叫ぶ。
「ラーメンマン、オッパブ、通いつめてるんだ!」
「オッパイ星人だ。オッパイ好きなんだ」
牛山が指を指してツッコむと、ラーメンマンは、開き直った。
「オッパイ、好きですがなにか!?」
オッパブとはオッパイパブの略。オッパイだけはもみ放題。でも本番も抜きもない。帰るときはモヤモヤ病の店だ。
「で、ラーメンマンのお気に入りは誰?」
「千夏ちゃんです」
とても素直だ。この店は、粒揃いの女の子が揃っていると評判である。3バカがやっぱりなあという顔をする。
「いや、そんなんじゃないっす。なんていうか、ちょっと本気っていうか。まじめな交際をしたいと思ってるっす」
ラーメンマンはそういうとトオル君の頭を思い切り叩き、小さな声で聞いた。
「このあいだ頼んだこと調べてくれたのか」
ラーメンマンの怒りがおさまったと安心したのか、トオル君は大きな声で答えた。
「千夏さんに聞きました。彼氏いません。ここずっと毎日処女だといってました」
「そっか」
「で、なんか足音さんに相談したいことあるって」
「ふーん、あとで連絡するっていっといて」
何の感情も出さずに返事をしたつもりだが、ラーメンマンの目尻は下がり口もとが緩んでいた。そのあとラーメンマンと3バカは、連れ立ってカラオケ『パセラ』の裏にあるホルモン道場“上州路”に向かった。
日曜の昼下がり、東口の喫茶店で千夏は男と向かい合っていた。男はラーメンマンではない。シンヤといい、茶髪でロンゲ、耳と唇にピアスを入れ、腕にはドクロの入れ墨、首には金色のネックレス、かなりの2枚目だ。
千夏に男がいた! それもあまりタチの良くない男が。
「もう顔も見たくない」
感情を抑えた千夏の言葉に、シンヤはニヤニヤしながら、
「本気? オレと別れられるの?」
出会いは1年前、ホストクラブ。頭が悪く、サービス精神も勤労意欲もないシンヤは売れないホストだった。ダメホストに千夏が入れあげた。マイナーなバンドばかりを追っかける女の子の心境に似ている。私がいなけりゃ、私が応援してあげなくちゃ、このバンド(男)はダメになるという、あれだ。
女が男に入れ上げた場合、男女の関係になるのは、そんなに時間はかからない。シンヤが千夏の部屋に押しかける形で同棲はスタートした。
もともとホストクラブの稼ぎは大したことがなかったから、千夏という金ヅルができて、シンヤはすぐに働かなくなった。いわゆるヒモというやつだ。
当時、スナックでオミズをやっていた千夏にお金をもらい、それだけでは足らずに危ない系の金を借り、あっというまに多額の借金を作っていた。
「返さなくっちゃ、指詰められる。千夏、頼む!」
千夏は派手な顔つきのわりには、すれてなかった。ほれた男には一途になる。借金を返すために、千夏はキャバクラに転職し、それでも足らずに、オッパブに移った。
シンヤの金遣いは相変わらず荒く、借金は少しも減らなかった。今度はソープへ移ってくれと頼んできたので、千夏は完全にキレた。
シンヤは、借金が縁で、広域暴力団・西井家組と交遊を深め、今は競馬のノミヤの手伝いをしている。ノミヤとは、本来、中央競馬会しか売れない馬券を、代わりに売ってしまう稼業で、もちろん違法行為だ。
「別れてやるよ。今の店もやめてオレの前から消えろ! もちろん池袋には一生顔を出せないからな」
千夏が働いているオッパブも、移れといわれたソープも西井家組の系列だといわれている。
「ただし今の店で作った借金、ちゃんときれいにしてからな。オメエみたいなブス、ほとほといやになってたからちょうどいい」
オッパブに入るときの前払い金と、千夏の客のツケが合わせて90万円ほど残っていた。
「客のツケといったって、シンヤの友達でしょ、ジョージは。あんたが友達だから大丈夫っていうからツケで遊ばせてあげたんじゃない」
薄ら笑いを浮かべるシンヤを千夏はにらんだ。
「だいたい、友達に私の胸、さわらせて、平気なあんたが理解できないよ」
「借金踏み倒したら、オレじゃなくて組を敵に回すことになるんだからな」
「女の腐ったやつってよくいうけど、女は腐ってもアンタみたいにはならないよ。シンヤは臭いよ、卵が腐ったみたいなにおいがする。顔も見たくない」
「そんなオレにほれたんじゃないの。オレとエッチしてヒーヒーいってたのはお前だろ」
「サイテー」
千夏はそう叫ぶと手元にあったおしぼりをシンヤに投げつける。シンヤがおしぼりを手で払い、立ち上がって千夏を殴ろうとした。
「そこまでだ」
後ろの席からシンヤの手首を捕まえた男がいた。シンヤは驚き後ろを振り返る。そこには身長190センチ近くある大男がいた。男は静かにこういった。
「千夏の父の末の弟、つまりおじです。プロレス関係の仕事をしています。なんかウチの千夏がキミに迷惑をかけたのかね」
岡林だ。たしかにこのあいだ「■■プロレス」の小さな広告を担当した。
横のテーブルに座っていた小太りの男が、立ち上がって二人の席まで来た。太だ。
「千夏の父の姉の息子、つまりいとこです。相撲関係の仕事をしています。千夏は小さいときからオレに懐いていてね……可愛い千夏に何があったのかと駆けつけてきた」
たしかに先日、頼まれて子供相撲大会のポスターの印刷をした。次に斜め前のテーブルから近寄ってきたのは体重100キロのデブ、牛山だった。途中でつまづいた。プロレス関係者。相撲関係者ときてこの巨漢。いったい何関係なんだろうとシンヤはびびっている。
「わわわわ私、千夏の姉の恋人の兄、ま、赤の他人ね。5年で30キロ太ったから、2015年には150キロを越えてる予定です」
ここまでスムースにしゃべれたので牛山は安堵した。岡林も太も最近手がけた仕事の関係者だと名のった。自分もそうすればいいんだ。昨日仕上げたポスターは……。
「赤の他人だが、千夏ちゃんをかわいそうな目には会わせない。私、手芸関係者です」
岡林と太がズッコけたが、シンヤは固まったまま動かない。あの巨体で、あの太い指で、セーターを編んでいる姿を想像して、シンヤは寒気がした。
するとつづいて奥のテーブルから貧相な体格のラーメンマンが出てくる。
「千夏の父の息子。簡単にいえば千夏の兄です。大学のときは少林寺拳法やってました」
ラーメンマンはジャッキー・チェンの蛇拳の格好をした。「アチョー」と雄叫びをあげている。
ラーメンマンがあまりに弱そうなのでシンヤは「ふん」と小馬鹿にした表情をして「オレ、帰る」といって立ち上がろうとする。岡林が両手で肩を押さえつけ、牛山が右隣、ラーメンマンが左隣に座り、腕を拘束した。
「千夏、何だよ、コイツら。オレとお前の問題だろ。関係ないじゃん」
「そんなら警察でも呼ぶ?」
千夏がそう答えると、岡林がシンヤの頭を思い切り殴った。今度はカウンターの席にすわっているさえないオッサン・中村が声をかける。貫禄をつけるためか、葉巻を吸っているが、カウンターの椅子が高く、足が短いから、足をブラブラさせている。貫禄なさすぎ。
「ゴホゴホゴホ……、私、わかりやすくいえば、千夏の父です」
シンヤはびくっとする。この喫茶店は3バカのなじみの店で、本日は貸切りだったのだ。
「千夏、父親と母親は離婚して、父親は早く死んで、母親とは仲が悪くて縁が切れてるから、天涯孤独だっていってたよな」
シンヤの疑問を、千夏は無視した。オッサンが続ける。
「父親にとって、娘の彼というのは、はっきりいって悪魔・敵・略奪者なんだ、シンヤ君。できることなら抹殺したい。殺したい。死にたいですか」
シンヤはジタバタするが、3人に押さえ込まれているので身動きできない。
「しかし、残念ながら娘がほれていて、娘を大事にしてくれる男なら、どんなに憎くても、敵であっても手を出せない。父親というのはそういうものです。そうだね、みんな」
みんなが口々に「そうだそうだ」とうなずく。オッサンはここで千夏の隣に座り、シンヤの顔をにらみつける。
「ただし、娘をないがしろにした場合、相手がたとえ強くて巨大な相手でも父親はひるまない。そうだね」
「そうだそうだ」
「うちの家系は血の気が多い。駅前で献血をやっていると、みんなどんなに忙しくても血を抜いてもらう。血が少ないくらいが体調はいい」
シンヤが「いい人たちじゃん」って顔をしたのでオッサンはテーブルをバンっと叩いた。すると岡林がシンヤの頭をはたく。シンヤが顔をしかめる。<
「いいか。血の気が多いということは相手がヤクザでも、たとえ生命を賭けても、やるときはやるってことです。そうだね」
おっさんは同意を求めたあとすばやく「クリーム」と付け加えた。
「ソーダソーダ」
「あわせてクリームソーダになった」
してやったりという顔をしてオッサンは手を叩いて笑った。
関西人はいつも受けよう、笑わせようとする。こんな状況でも同じだった。いくらお笑いブームでも、東京人には理解できない。東京で生まれ育ったシンヤは、だからおびえた。理解不能な存在に出会ったとき、人は恐怖を覚えるのだ。
「で、千夏と別れてくれるかね」
オッサンが尋ねると、シンヤは首を横に振った。
「こいつ、店に借金が90万円あるんすよ。それを返さないでやめられたら、こいつもオレも、ボコボコにされちゃうっす。東京湾に沈められる」
「アンタの借金の穴埋めをするための前借りと、アンタの友達が踏み倒したぶんでしょ。死ねばいいのに」
千夏がそういうと、岡林はパコンとシンヤの頭を叩いた。「何するんだよ」と大げさにシンヤが痛がるので、岡林はもう一回シンヤの頭を叩く。今度はバシッという音がした。
オッサンは太にケータイを貸すように促した。シンヤが心配そうに聞く。
「警察に電話するのかよ」
「死刑になればいいんだ」
千夏が憎々しげにいうと、岡林がシンヤの頭をグーで殴った。ゴンという音がする。
「もしもし、はじめまして。中村といいます。東口のバー『コータロー』のマスターから紹介してもらったんだけど。お願いしていいですか。じゃあ、今日のメインレース、馬単で10点くらい買いたいんです。1点2万円。が、私、ボックス買いでも流し買いでもない。出目の研究をしていまして、何の脈絡もない買い方なんですよ。発走まで時間もないし、ちょうどここにおたくの若い人、シンヤ君いますから、買い目を書いた紙を彼に預けますね。はいはい、替わります」
オッサンは、シンヤにケータイと買い目を書いた紙を渡した。腕を絞めていた牛山とラーメンマンが手を放す。
「もしもし、シンヤです。はい。確かに買い目の書いた紙、受け取りました。お金は?」
オッサンはポケットから札束を出してシンヤに見せる。
「金、持ってます。はい、レースが終わったら回収してそちらへ帰ります」
そこで牛山がシンヤから電話を取り上げると、オッサンに電話を渡した。そして牛山とラーメンマンは再びシンヤの腕を絞める。
「じゃあ、よろしく。今後ときどき買わせてもらいますから、はい、だいたい1日20万円は買いますから」
電話を切り、太に返す。オッサンはシンヤが手伝っているノミヤで馬券を買ったのだ。買い目を書いた紙はシンヤの前のテーブルに置かれた。
オッサンが競馬新聞を広げると全員がのぞき込む。オッサンが買った買い目は本当に統一性かないもので、2―7があったり8―14、14―12、11―1といった具合だった。
5分後、牛山のケータイがテレビの競馬中継を映し出した。メインレースは短距離1200m、16頭立て。レースがはじまると、すぐに本命と対抗が落馬した。
買い目に一貫性がないから、どの馬を応援していいかわからない。みんなただ馬の疾走を眺めるだけだった。
レースが終わった。12―11で7300円の中穴だった。
その瞬間、おっさんは「12―11」と呟く。するとなんと、ラーメンマンのTシャツの下からシンヤの腕を決めている以外の手が、にょろっと出て、すばやくシンヤの前にある買い目シートをすり替えた。電光石火の早ワザだった。それを確認するとオッサンが芝居がかった口調で声を出した。
「やった。当たった」
千夏と太と岡林がわざとらしく拍手する。牛山とラーメンマンは空いているほうの手で握手だ。シンヤが信じられないという顔で叫ぶ。
「エー!? 12―11なんて買ってなかっただろ!?」
「確かめればいいじゃない」
千夏がそういうとシンヤは牛山とラーメンマンの腕をふり払って、紙を手に取り、まじまじとながめた。上から5番目に、たしかに12―11の数字が書かれていた。
「当たってるでしょ?」
おっさんが同意を求めるとシンヤがうなずく。岡林がシンヤの頭をこずきながら、命令する。
「ちゃんと声に出して!」
「当たってる」
その声を太がケータイの音声メモに録音した。
「73倍だから146万円ね。そこから馬券代20万円、手数料引いて千夏の借金返してもおつりが出るから、残り、キミに上げるわ。それ、手切れ金ね」
シンヤはまだ納得が行かない顔をしている。
「じゃあ、シンヤ君、帰っていいよ」
「千夏、覚えとけ!」
岡林がもう一度シンヤの頭をはたいたあとに、牛山とラーメンマンが手を放すと、シンヤは慌てて席を立ち、出口に向かう。その後ろ姿にオッサンは声をかけた。
「それから2度と千夏には近づかないでね。私たち素人ですけど、この界隈ではそこそこ顔が広いので警察も知ってますから」
ここ3ヵ月、岡林は車を盗まれ、太は酔っぱらい運転で捕まり、牛山は足の指先を車に引かれた。たしかに警察は知っている。
シンヤは逃げるように喫茶店を出ていった。
ラーメンマンが、Tシャツをぬいで裸になると、ずっとシンヤの腕をつかんでいた義手をはずした。本物の右手は買い目を書いた紙を何枚も握っている。
今回の計画は、「シンヤと別れたい」という千夏のためにラーメンマンが真剣に考え、3バカとオッサンに相談して立てたものだ。
手先がマジシャンのように器用で、記憶力が抜群のラーメンマンの長所を最大限に生かした。
あまりに見事に決まりすぎて、オッサンは放心状態で立てないでいる。
「どんな目が出ても当たるというのはわかるけどさ、もし配当が安かったらどうしたのさ」
太が素朴な質問をぶつけた。
「もう1レース、最終レースが残っていた」
「それも配当が低かったらどうしたの」
「また計画の立て直しだったな」
千夏のまわりに、わけのわからない人間が存在すること、千夏のために集結する仲間がいることをシンヤに知らしめることが、今回の最重要課題だった。ヤクザのような組織ではないが、奇妙キテレツな不思議な人間たちが千夏を守っている。そう認識することでシンヤの千夏に対する対応は変わるはずだった。
千夏は泣いていた。誰も声をかけなかった、というよりかけられなかった。
いやな男と別れられて喜んでいるのか、それとも憎くてもかつては愛していた男と会えなくなる哀しみなのか、しょうもない男にかかわってしまった自分に対する後悔なのか。
「女心はまったくもってわからない」という共通点を持つバツイチトリオは、千夏の涙の意味を知ろうともしなかった。
ラーメンマンが、カウンターの後ろから大きな花束を持って千夏の前に立った。
「オッパブで、キミの大きくもなく小さくもない、形のいいおっぱいを触ったときから、ボクの心はキミでいっぱいになりました。千夏ちゃん、結婚してください。お願いします」
ねるとん紅鯨団バージョンだ。なんだか秋の寂しい花が多いが、どう見ても最低5000円はする花束を両手で差し出すと、頭を下げた。
千夏は涙を拭きながら立ち上がった。
「ゴメンナサイ」
ラーメンマンは花束を下げ、「やっぱりなあ」と落胆して椅子に座り込む。
「今日は皆さん、ありがとうございました。縁もゆかりもない私のためにヤクザを敵に回して戦ってもらって、感謝の気持ちでいっぱいです」
太が「オレたち、ヤクザ、敵に回したの?」というと、牛山が「ヤバー」と今頃になって驚き、「どうしよう」と岡林がうろたえ、オッサンの顔がみるみる青ざめた。そんな様子を千夏は見ていない。
「足音さん、今日のあなたはとても素敵でした。かっこよかったです。でもここから先は私ひとりで後片付けをしなければ。シンヤともちゃんとケリつけなけりゃ。話はそれからだよね」
そういうとラーメンマンの持っている花束から紫とピンクの花を2輪抜くと、両手でその花をラーメンマンに渡す。意味もわからずその花を受け取ったラーメンマンを残し、千夏は喫茶店から小走りに出ていった。
「なんて花?」
「ダイヤモンドリリーと忘れな草」
太の質問に喫茶店のマスターが答える。ラーメンマンは花をながめながら大きなため息を何度もついた。
その後すぐに、千夏は池袋の街から姿を消した。銀座でOLをやってるという情報をくれたのはトオル君だった。
年の暮れ、サンシャインに隣接している東池袋中央公園で一心不乱に踊るラーメンマンの姿があった。腰を痛めて一時中断していたダンスを再開したらしい。
「違う、そのステップ。腰をこう入れて!」
必要以上にさわりながら、ダンスを教えている相手は、あの千夏だった。
夏の終わりに蒔いた恋の種は、冬になってやっと咲いたらしい。
ちなみにダイヤモンドリリーの花言葉は“また会う日を楽しみに”、忘れな草は“あなたを忘れない”と“真実の愛”である。
To be continued
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